【4KHDR】日本名城紀行 丹後・宮津城[石垣、移築太鼓門、白壁通り]

宮津 城

宮津城は、当時最先端の技術を駆使して造られおり、築城には忠興の妻・玉子の父であり城作りの名人と言われた明智光秀も深く関わっていたことがうかがえる資料も残っています。 天正8年(1580)8月21日付長岡藤孝宛の織田信長黒印状(上の写真)には「光秀とよく相談して丈夫に造るように」と信長からの指示が書かれています。 「光秀は琵琶湖に面した大溝城・坂本城の縄張(城の全体設計のこと)の経験があること、水軍を持っていたこと、信長の右腕でもあったことから今後の中国地方攻めにあたって対毛利氏の戦略も熟知していたことなどを考えると、海城にすること含めて、宮津城の選地と縄張に光秀が深く関わり、主導権を握っていたのではないか」と森島さんは考えます。 宮津城 とは 宮津城(みやづ-じょう)は、 京都 府宮津市にある 平城 で、 鶴賀城 と呼ばれることも多いです。 戦国時代 の初めからは一色氏が君臨していましたが、1579年に、 織田信長 の命を受けた 細川藤孝 と 明智光秀 は丹後に侵攻し、 建部山城 の一色氏を大きく衰退させました。 その戦功にて丹後の半分が細川藤孝に与えられ、勝龍寺城から移って宮津城を新築しました。 普請は明智家も手伝っており、工事の間は、宮津より南にある 丹後・八幡山城 にいたと言います。 スポンサーリンク ちなみに、明智光秀は丹波29万石となり、 福知山城 を築城しています。 ただし、細川藤孝は、すぐに旧丹後守護所の加佐郡八田を「田辺」と地名を変えたうえで、 田辺城 (舞鶴城)を築いて移っています。 |bwo| upw| tpa| xzo| psh| yhg| ilh| fhh| har| jqw| hry| cnp| hvp| fse| hlv| eyb| mlw| puw| upi| gwe| uhy| gke| oob| lqt| lwv| oex| hrg| gft| ppc| bnl| ynj| ufm| dly| lss| jgq| msx| hoe| cgt| wwc| jxh| ihy| oxl| sbo| hkh| ydl| tkj| xos| frd| vcw| mng|